30.3.13

5-SHE 「生気論」


 by Toshi (Toshimi Ishii)

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第5回 サイファイカフェ SHE

The Fifth Sci-Phi Cafe SHE (Science & Human Existence) 

テーマ: 「生気論 vitalism を考え直す」 

 2013年3月26日(火)、27日(水) 18:20-20:00
いずれも同じ内容です

案内ポスター

SHEの趣旨と今回の内容 

この世界を理解するために、人類は古くからいろいろな説明の方法を編み出してきました。それが神話であり、宗教であり、日常の常識でしたが、それとは一線を画す方法として科学を生み出しました。この試みでは、長い歴史を持つ科学の中で人類が何を考え、何を行ってきたのかを、毎回一つのテーマに絞り、振り返ります。そこでは、目に見える科学の成果だけではなく、その成果の背後にある歴史や哲学にも注目します。このような試みを積み上げることにより、最終的に人間という存在の理解に繋がることを目指すスパンの長い歩みをイメージしています。
今回は、その原型がアリストテレスの哲学にあるとも言われる生気論(vitalism)を取り上げます。生気論は生物には物理化学の原理に還元できない生命原理、生命力があるとする哲学的立場で、近代に入ってからは機械論(mechanism) に対抗する立場として新たに蘇りました。しかし、機械論、還元主義が圧倒的な力を持つ現代では非科学的であるとして退けられています。その背景には一体どのような歴史があるのか。科学万能時代と言われる今、非科学的とされた生気論から学ぶことはないのか。もしあるとすれば、それをどのように今の時代に生かすことができるのか。これらの問題を考え始めるための枠組みについて講師が30分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。
会場: カルフール会議室
Carrefour 

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223 


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5SHEのまとめ

年度末のお忙しい時期に参加していただき、ありがとうございました。お陰様で、充実した会にすることができました。これからもSHEの趣旨をご理解の上、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
今回のテーマをなぜ選んだのかははっきりと思い出せないが、おそらく、こういうことだったのではないかと思う。現役時代には頭に浮かぶことはなかった生気論が蘇る出来事があった。それは、2010年に参加した学会の会場となったモンペリエ第1大学医学部でのことである。当時の様子は以下の記事をご参照願いたい。

その後、このようなことを考えた人たちの思索の跡に興味を持つようになった。今回明らかになったのは、当時の学問の主流を占めていた機械論(機械が部分の動きから全体を理解できるように、生物も部分から全体が理解できるとする立場)に抗する形で生気論(体と思考する精神の他に物理化学では把握できない「生命原理」を想定する)が 生まれていたことである。つまり、生物現象は部分に分解して解析するだけではわからない特別なものであるという生命に対する一つの感情がその中に込められ ていたのである。このような感情はわたし自身の中にも見られ、多くの方が共有しているのではないかとも想像される。それが、所謂生気論が科学的に証明され ないものとして否定された後にも生気論的な考えが漂っている理由のように見受けられる。この点が、例えば天動説が否定された後、天動説を信じる人が一部の カルトを除いて見られないように、科学的に否定された考えが歴史の闇に消え去る状況と異なっている。
現代の生物学において、モンペリエ学派のポール・ジョゼフ・バルテ(Paul-Joseph Barthez, 1734-1806)に代表されるオリジナルの生気論を持ち出して論じるよりは、生命現象を物理化学に還元することがで きるのか、それとも生物学の独自性、自律性を認めるのかという対立として捉え直す方がより生産的に見える。例えば、部分の単なる足し算、引き算では説明で きない現象とされる「創発」、「自己組織化」、「ホメオスターシス」、「可塑性」などを生気論の伝統を引き継ぐものとして眺めるのも興味深いのではないだ ろうか。フランス語をやられる方は、以下の本が現代的視点からこの問題を考える上で参考になるかもしれない。
Repenser le vitalisme Direction : Pascal Nouvel Presses Universitaires de France, 2011
今回はこれまでにも増して意見交換の質が高くなっているように感じた。それ自体は望ましい展開である。ただ、この試みを始めた時の願いの一つは、科学的な考 え方を幅広く語り掛けることであった。そのためには、おそらく別の形式を考える必要があるのではないかという思いも湧いている。現在の試みは今の様式のま ま進め、さらに専門性を高めるように努める。その一方で、将来的に余裕ができる時があれば、より広い対象に向かう新たな様式を模索してもよいのではないだ ろうか。

今回感じた講師の内的な変化として次のことがある。これまでは、パリから降り立って少し距離を置きながら対応しているところがどこかにあった。それが今回は、土地に根を下ろした人間が水平方向に語り掛けているように感じた。そのためか、これまでには感じたことのない熱を体に感じながら話していた。この変化は好ましいものとして写った。

今回新たに参加された方は、全体の約20% であった。その中には、仕事のお相手の口から「生気論」という言葉が出て、ネット検索したところこの試みに辿り着いたという方、退職後哲学の大学院生とし てフランス哲学を中心に研究されている方、退職を控えて模索されている方、わたしの話をどこかで聴かれた方、ネットでこの会を発見された方などがおられ た。これからも再訪者だけではなく、新たに参加される方が続くことを願うばかりである。興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。

参加者から届いたコメント

●スライドありがとうございます。
  復習の材料とさせていただきます。 感想をお伝え致します。

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感想

まず、会場に男性しかいなくて驚きました。
硬派な感じでしたので、私としては馴染みやすかったです。

講座の内容は、それぞれの参加者の経歴や知識が異なる中で、
様々な生気論に関する意見を聞くことができたのは、とても良かったです。

自分ひとりでは出てこない発想や疑問点を共有させていただける機会は貴重でした。

スライドを改めて見直したところ、
やや駆け足だった後半の部分も、
矢倉さんのお話をもう少し詳しく伺いたかったと思いました。
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以上です。
本日は充実した機会をありがとうございました。
是非、また参加させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。
● 昨晩は最後は新宿駅の雑踏の中見失ってしまいご挨拶できませんでしたが、改めてありがとうございました。また、スライドをお送り頂きありがとうございま す。昨晩の会では色々なバックグラウンドを持った方々のご発言を伺え有意義でした。当日のテーマに絡め、懇親会では生命科学系の方の進化論についての現在 のお考えも聞けて参考になりましたが、矢倉さんが現在の進化論に対してお持ちの考えを伺いそびれてしまったなと思っています。またいずれお会いできること を楽しみにしています。

そういえば「恩寵」を私はgrâceの訳として使ってました。それではまたの機会に。

●お疲れ様です。本日もいつもながら刺激的なカフェで楽しめました。どうもありがとうございます。

今回のテーマは少々難しかったのですが、感想をお伝えします。
そ もそも科学に取り組む際には、生気論のような説明不能なものに興味を惹かれて取り組みことも多いのではと思いました。さらにカフェでも申し上げましたが、 科学の進歩によって解明した真理が、生気論を意識的または、無意識的に保持している人にとっては理解し得ないものになることもあるのではないでしょうか。

人間は社会性のある動物であるため、コミュニケーションがその本質であると思」います。伝え得ない科学的成果は人類としての英知になるのでしょうか。科学の発展のためにも、生気論のようなことを踏まえることは重要であると感じました。

次回も楽しみにしております。今後も宜しくお願いいたします。
● 昨日は、ありがとうございました。また、スライドをご送付いただき、大変参考になります。昨日の私の発言で、一点訂正があります。昨日「心身問題」でとり あげたフランスの神経生理学者は、当時、パストゥール研究所分子神経生物学部門部長、コレージュ・ド・フランス教授のジャン=ピエール・シャンジューで、 著作は『ニューロン人間』 (みすず書房 1989年)です。この著作は、身体行動・感情・心の動きもニューロンの働きによるということだと思います。感覚や心の動きがニューロンの 働きに一義的に結び付けられないとする考え方が存在している心身の領域で、高度な議論が宗教・哲学・科学の間で積み重ねられてきていますが、この著作は科 学者側からの高度な議論だと思います。当時(1990年前後は、プリコジン、ベイトソン、ライアル・ワトソンなどの著作があいついで翻訳されていたことを 思いますと、新たな知見での議論が展開されることを待望しています。また、昨日は、技術系の方々と話すことができ、有意義でした。

●本日も楽しい会をありがとうございました。
生気論という言葉に初めて触れまして、理解するのもおぼつきませんでした。家に帰って、改めてスライドを拝見しました。何かがひっかかっていたのですが、その原因がわかりました。それは、生気論が心と身体を分けて考えるという前提でした。前回のテーマへ一瞬にして舞い戻りました。心と身体を切り離して考える ことがどうしてもできない私は、生気論自体が脳にしみ込んでこなかったようなのです。拒否反応でしょうか???

生命とは?と考えてみました。常に生まれ変わる細胞、くるくると定まらない思考、動き続ける心臓、、、、仏教では諸行無常といったところです。

生気論という言葉からは、東洋医学の気のようなものを連想させます。陰陽五行説のような。東洋医学と科学の関係はどんななのでしょう。

さて、科学が実証を必要とする以上、存在論的な問題に堕してしまう気がします。そのあたりはいかかでしょうか。哲学では、語り得ないものを語る営み、存在していないものの存在を語る営みがなされています。(語り得ないものを私たちが共有しているからこそ語ることができる世界に、我々は住んでいます、この不思 議!) 科学でもって、語り得ないものを実証することができるのでしょうか。(できたとして、それが私に理解できる言語であるか不安、、、

世界に関する優れた翻訳は、詩の世界で読むことができます。たとへば宮沢賢治。

 わたくしという現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せわしくせわしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失われ)

 これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
 (すべてわたくしと明滅し
  みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつづけられた
 かげとひかりのひとくさりずつ
 そのとおりの心象スケッチです

 これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがえましょうが
 それらも畢竟こころひとつの風物です
 ただしたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとおりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとおりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
 (すべてがわたくしの中のみんなであるように
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 けれどもこれら新生代沖積世の
 巨大に明るい時間の集積のなかで
 正しくうつされた筈のこれらのことばが
 わずかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるいは修羅の十億年)
 すでにはやくもその組立や質を変じ
 しかもわたくしも印刷者も
 それを変わらないとして感ずることは
 傾向としてはあり得ます
 けだしわれわれがわれわれの感官や
 風景や人物をかんずるように
 そしてただ共通に感ずるだけであるように
 記録や歴史 あるいは地史というものも
 それのいろいろの論料といっしょに
 (因果の時空的制約のもとに)
 われわれがかんじているのに過ぎません
 おそらくこれから二千年もたったころは
 それ相当のちがった地質学が流用され
 相当した証拠もまた次々過去から現出し
 みんなは二千年ぐらい前には
 青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもい
 新進の大学士たちは気圏のいちばん上層
 きらびやかな氷窒素のあたりから
 すてきな化石を発掘したり
 あるいは白亜紀砂岩の層面に
 透明な人類の巨大な足跡を
 発見するかもしれません

 すべてこれらの命題は
 心象や時間それ自身の性質として
 第四次延長のなかで主張されます

   大正十三年一月廿日
          宮沢賢治

次回も楽しみにしております。

● おはようございます。早速スライドをお送りいただき誠にありがとうございます。懇親会では、還元論で未だ十分に説明がつかない他の例として(?)、「漢方 薬」のお話が出ました。種々の生薬の混合物である漢方薬の効能は、それぞれ単味の生薬の作用では説明がつきません(あるいは、説明できるほど未だ science が進んでいない?)。実に愉快な一時でした。次回 9/10 or 9/11 を楽しみにしております。

●回を重ねるにしたがって、講師と聴衆の間に不思議な一体感のようなものが醸成されてきていることを感じました。

昨日の生気論と還元主義のお話、先学者たちの考察をうまく整理されておられたので、こちらも学ぶことが大きかったです。要するに、還元主義 というものも「精神」とか「心」という目に見えないものを持ち出しているかぎりで、生気論であるということに気づきました。徹底的な唯物論に進む必要があ ります。

二次会で、脳神経科学の専門家の先生から、目から神経が脳幹網様体に到達していることを伺いました。おそらく、ヘレン・ケラーは、目が見え なくなっても、網様体で見ていたのではないでしょうか。我々の認知のメカニズムは、網様体における免疫現象ではないかと、あらためて思いました。

荒川修作が意味のメカニズムで網様体のダイアグラムを描いていたことを思い出しました。「ヘレン・ケラーまたは荒川修作」をぜひ読んでみて下さい。
 ● 二日続けて参加させていただきありがとうございました。先生のレクチャー、その後のディスカッションともに興味深く、また現場の科学研究者の方たちもふく め幅広い議論を聞けて有意義でした。はじめの方のスライドの日本とフランスの思考の仕方が違うというところで連想したのは、日本の哲学科教員の多くが哲学史研究者であって哲学者ではないという中島義道氏の指摘でした。もし本当に日本の「哲学者」が過去の哲学者の思考の足跡をたどることはできても自ら哲学を展開することが出来ないのだとしたら、日本に科学哲学が根付かない理由も、科学者の還元主義的態度ばかりに求めれないと思います。また次回の会も楽しみにしております。

●私は生気論者かもしれません。感覚としては、身体も心もありますが、それらとはまた別の原理で確かに私の身体はmarcheし ているような気がするからです。たとえば、私は起きている間にだけ心室性期外収縮があるのですが、こういった変則的な?現象は身体に起きていることではあ るのですが、心にも因っていないように思いますし、何か別の働きがあるように思うからです。(だいたい心臓がある一定のリズムで動いていること自体、不思 議ですし。) これは無意識なのですが、では意識のないところで、どうしてこのようなことになるのか、という説明が、物理化学で可能かということに関して 私にははなはだ疑問です。

ところで、言葉でこれと名指してしまうと、そのとたんにある立場を選びとることになります。「心と身体は区別できない」といいつつも、そう表現している言葉 においてすでに区別されている以上、区別できる立場に立っているのではないか、という疑念が浮かびますが、いかがでしょうか。そういう問題もあって、名指 すときは必ず言葉を定義する必要があるわけなんですが、当たり前のように、先に世界があって言葉があるように私たちは考えていますが、ひょっとしたら言葉 だけがぽんとあって、その言葉が世界の何をも指し得ていないということもあり得るのではないのでしょうか。そう思うと、安易に言葉を使うことがためらわれ てしまいます。

昨日はそういった意味で、具体的にどういったことを指しているのかがイメージしづらい言葉がたくさんあったので、理解が追いつかなかったんだと思います。(もともと何でも遅い子でして、、、、)

本当にいつも勉強になります。ありがとうございます。
次回も可能であれば参加させて頂きます。

●とても楽しい会でした。ありがとうございます。生物学の専門家の忌憚ないご意見が聴ける場は、なかなかないですね。とても貴重だと思います。

ぼくが感じたのは、生気論のような、現在の科学の考え方と、一見、相いれない思想の中に、新しい考え方が潜んでいるということでした。錬金術の中に、すでに、科学的考え方の原型があったことに、それは象徴されています。また、科学的仮説というものが、人間の想像力と無関係には存在しないことを考えてもいいかもしれません。

生気論は、複雑系の考え方に引き継がれている、というのが、ぼくの直観です。この線で、生気論や複雑系を検討してみたいな、と考えているところです。

会の運営、お疲れさまでした。
●荒川修作が1997年に語った言葉がありますので、ご紹介します。
(
いくつか関連した予稿もウェブサイトにアップしてありますが、とりあえずインタビュー抄だけのurl)
http://www.jaist.ac.jp/ks/skl/papers/tokumaru/2_20110621IBIS.pdf
http://www.jaist.ac.jp/ks/skl/activity/pg85.html

また、ウェブ上に、意味のメカニズムのダイアグラム絵画がいくつかありましたので、添付します。この絵画に出てくる筒状のものがおそらく脳幹であり、そこから放射状に延びる線が、網様体の生みだす意識の世界なのではないかと思います。




生気論を否定するためには、意味の生理構造、分子構造と目に見えない現象を、解明する必要があります。荒川修作はそこに1970年代にすでに到達し、そのうえで、天命反転の作業に移行したのです。
どなたかがおっしゃっておられましたが、女性が来なくなりましたね。女性には、こういう論理的な話が受け容れにくいのでしょうか。

女性に限らず、旧制高校の教養主義のようなものが最近はますますなくなってしまい、寂しいかぎりです。アメリカ占領軍が最初に行なった戦後 改革は、教育改革であり、旧制高校の廃止でした。最近では、教養学部というものがなくなって、東大駒場くらいしか残っていないそうです。

サイファイカフェの試みは、21世紀に生まれるべくして生まれた、新たなる教養主義の試みといえるでしょう。フランスで思考されたことが、こうやって我々に還元されていることに、心から感謝申し上げます。

●今回のテーマ「生気論」は、前回の「心脳問題」の生物学一般への拡大バージョンとして関連づけて考えることで、より深い気づきを得ることができました。ただし、「心脳問題」も「生気論」もすぐには答えが出せる問題ではないので、むしろ問いの場を設定することで参加者がそれぞれの言葉遣いで、信念の告白なりスペキュレーションを展開する際の言葉の言い回しに、私としてはより刺激を受けます。特に今回は免疫学をご専門とする先生方が多く参加されていたので、専門家が日々の研究活動の中で感じる「生気論」についての解釈が生で拝聴できて大変貴重な経験でした。ある先生がおっしゃった「生気論とは、いずれは死ぬことを運命づけられているヒトという生物が感じる郷愁である」という言葉は、じつに印象的でなにかストンと「腑に落ちる」ものを感じた次第です(ここから私は三木成夫の面影という言葉を連想しました)。
日本語は、哲学言語と日常言語が解離しているため、翻訳を通しては西洋哲学が理解しにくいとよく言われますが、専門家が専門知に基づいて日常言語で話す際 の、一般的な言葉遣いではない独特の言い回しに、これまで見えていなかった新たな風景を見る思いがして新鮮です。めったにないこうしたことが体験できるの も、この会の非常な魅力の一つだと思います。主宰の先生に改めて感謝いたします。

●この度は、サイファイカフェに参加させていただきありがとうございました。御礼と感想が遅れまして申し訳ありません。

生気論ということで昔から色々考えていた点もあり、非常に楽しみにしておりました。講義では、アミニズム(物活論、汎心論)と生気論の歴史的な背景をふまえた解説をしていただきまして、とても勉強になりました。

私の個人的な感覚では、生気論は宗教における汎神論的考え方(西洋:ハシディズム、アッシジの聖フランチェスコ、スピノザ、ゲーテ; 東洋:ウパニシャッド哲学、大乗仏教(草木国土悉皆成仏)を源流にしているのかと漠然と思っておりました。すなわち、神(〜根本原理)によって生じた被造物(〜衆生)もまた神の一部であり、人間と本質的に変わることはない。そのなかから、デカルトの「動物=機械論」に対抗しつつ、生物学の発展とともに、人 間の特性を生物一般に拡大するイデーを模索している、と。日本の場合は、明治以降の思想輸入と伝統思想の習合が大正生命主義として開花したのではないか、と。

どちらの宗教的源泉にから生気論がうまれたとしても、生気論あるいはその発展理論の信奉者は、どこかに生命に対する畏敬の念を保持していると思います。先生は、この点に関して、まさにCanguilhemの言葉を引用して講義を締めていただきました。かくいう私も生命科学の研究者として、生命には特別の何かがあるのではないかと、どこかで考えています。

完全な閉鎖系では生命活動はおこなえないはずですので、外部から得られるエネルギーを効果的に利用するための何か、特別な原理があるのではないか。科学的方 法は、人間の伝統的思考方法を超越できる、現時点で最も優れた道具(おそらく)ですので、それを用いて、自分の限られた時間の中で畏敬の対象を目にした い、明らかにしたい。このような研究への思いを気づかされた貴重な時間でした。

重ねて、会の主宰に対して、御礼申し上げるとともに、機会があればまた参加させていただければ、と思います。最後になりますが、この会の益々の発展を御祈念しております。

●3月26日(火)のカルフールでのSHEに初めて参加させていただきました。場所を移しての皆様方の議論も聞かせていただき、楽しい会であったと思います。この会を通じての小生の感想をお送り致します。  

文系出身のわたくしは、長らく情報処理系の仕事に携わっておりました。退職後は、川崎市のかわさき市民アカデミーで生命科学を学んでおり、現在理事も務めて おります。そこでは、理化学研究所やお茶の水女子大学、東京理科大、東京大学などと共同でカリキュラムを組ませていただいており、領域も多岐におよんでお ります。たまたま2月に、お茶大の室伏公子先生のカフェ講座に出たおりに、ネットで矢倉先生のカフェ講座が目に止まり参加した次第であります。それは、先生の抱いておられる問題意識と同じものをわたくしも持っていたからで、アカデミーを通じ、多くの科学の専門家からのレクチャーや、フリーの意見交換を通じ て、この数年多くの知見を得る事が出来ましたが、残念ながら矢倉先生のような議論はほとんどしてきませんでした。講師のみなさんは、ほとんどがベルナール的な姿勢を持たれており、個人的に、学会をはなれたところでお話を聞く場合に限って、生気論にはとても理解があったりして、常々面白いと思っておりました。このあたりもベルナール的だと思います。また、ベルグソン的な考えにも理解をお持ちです。

要するに、科学的論拠を示せないことは、とりあえず議論をしない、議論の対象から、はずしておく、まずは事実を科学的に明らかにすることが先決であり、それ が科学者の正しいあり方であるといった姿勢があって、こういった地道で専門的な科学的探求の積み上げが、特に20世紀になってからの加速度的な文明進化に貢献していることは確かです。

翻って、デカルトが二元論を唱え、精神やこころの領域の議論と、還元論的な議論をとりあえず分けて進めようとしたことは、当時の科学の水準から見てきわめて妥当な議論だったのではないかと、わたくしは思っております。デカルト自身は両者には相互作用があると考えていたわけで、特に精神、心の問題が、存在にかかわっており、あるいは存在それ自体であるかのような議論をしています。しかし人類はこの先、どんなに科学が還元論的に進んだとしても、この相互の関連、なかでも精神の実態を解明することは永遠に出来ないのではないかとも思っております。生気論の中でも特別なカテゴリーに属する難問であります。

ある科学者は、精神の側からの働きかけがあって肉体が動くと言う現象は、エネルギー保存則に反することだとして、たとえば、シュレーディンガーのいうネゲン トロピーという一種の「生気」の存在を否定しています。ネゲントロピーは、先生が今回記されたハンス・ドリーシュのエンテレキーと似た概念です。

われ思う、ゆえにわれ在りという存在にかかわるデカルトの思考は、仏教でいうところの 「唯識」にあたるわけで、古代ギリシャのプロタゴラスやゴルギアスあるいは龍樹らが唱えていたことと同じ範疇にあると思います。これは近代の量子力学の成立過程で、「意識」というものがはじめて科学の対象になってきたことを思えば、純粋なる哲学の世界の話と割り切れるものではありません。ただし、なぜ意識や精神が物理現象と深くかかわっているのかは、わかっておりません。アインシュタインは納得しなかったようですが、ボーアは受け入れていました。これは体細胞がなぜ iPS細胞になるのかという、道筋がまだわからないのと同じです。

ビッグバンを経て、物質が生まれ、その一部が細胞となり、多細胞生物になり、人類を生み出し、精神をも発現してしまう、言い換えれば、無機的な?物質あるいはその集合体が、なにかを境に生気を獲得し、それを維持するための巧妙なしくみを内包しつつ、精神活動までおこなってしまう。挙句の果てにおのれとは何者か、どこから来て、どこへ行くのか、など自問していること自体が不思議であります。おもわず人間原理を信じたくなってしまいます。

量子コンピュータ、量子素子を開発している最先端の研究者のことばにはおどろかされます。その研究者は、非局所的存在である電子の心が解る(電子がどの場所に隠れているかがわかる)時がある、というのです。つまり物質にもなにか心的な属性があるとでもいうのでしょうか。不思議です。要するに、科学はこれまで 特段の進歩を遂げてきたとはいえ、知れば知るほど未知の領域が広がり、程度の差はあるものの、現在はデカルトが置かれていた科学の環境と比較論的には大差がないのだと言ったら言いすぎでしょうか。

最後になりますが、先生が「デカルトの樹」の逆転について、考えを述べられていますが、 「個別の知識で終わる世界ではなく、集められた知識を批判的な視線のもとに組み合わせ、関連づけながら統合するという精神運動による新しい知の確立を目指 す」というコンセプトは大変重要なことだと思います。評論家の松岡正剛さんが「編集工学」と呼んでいるスタイルに似ています。こういった活動を積み上げて いくと、今よりさらに高みから物事を見ることができるようになるのではないかと思っております。たくさんの人の参加が必要です。
●先日は、ご丁寧に、講座のスライドと、参加者の有意義なコメントを頂き、 誠にありがとうございました。矢倉さんの生気論に対する見方見識、生気論というものを取り上げ、考えさせるという試み・・・ 大変興味深く読ませていただきました。皆さんの反応も大変良かったようですね!また、天命反転住宅を造られた、荒川修作さんは、講義を一度聴いたことがあります。もう6.7年 前のことですが、大変熱いエネルギーを感じさせる方で、脳科学者の茂木健一郎さんの講義に呼ばれてお話をされました。そのご紹介のあった図で脳の研究をされていたというのを知り、ややびっくりしましたが、なるほどと納得できました。けれど、彼の作品を観たいと想いつつ見そびれていました。荒川さんは、天才的な気というものを感じさせる方でした。一度お目に掛かっただけですが・・・  また、次回に参加出来ることを楽しみにしています。

フォトギャラリー

2013年3月26日(火)




 
2013年3月27日(水)

この日、カルフールでの写真撮影を完全に失念してしまった

そのため懇親会だけの写真となった

懇親会を欠席された方が4名おられたので、かなりの参加者であった
 











(2013年3月30日)