13.1.14

生命倫理メモ



lundi 24 janvier 2017

唐木順三著『「科学者の社会的責任」についての覚え書』を読む。4年ほど前、成田からパリに戻る機内で読んだことになっているが、中味はあまり覚えていない。おそらく、今ではよく言われることが書かれてあるので、それほどインパクトを感じなかったからではないだろうか。これから問題になるのは、その問いにどうように答えるのかということになるだろう。

この本の中にあった、『朴の木』改版にあたって、というエッセイを読み直してみた。そこでは、大きな問題として人間の退廃が指摘されている。その中で、教師に望むこととして、政治的、社会的に考えるだけではなく、人間として、自分の問題として考えてほしいと言っている。教師に限らず、この運動が行われていないことが人間の退廃にも結び付いていると思われる。

この現象は、わたしが唱える「意識の三層構造理論」によれば、第三層の(活動の)欠落として説明できるだろう。これは本編で論じられている問題の解決にとっても重要になるはずである。自らの深いところに返ってものを考えることができるのか、人間として感じることができるのかの問題である。そう言うことは簡単だが、実行は至難の業である。そもそも第三層が何たるかをイメージできなければ、具体的な実行には向かえないからだ。深いところがどこなのかが見えてこないからである。それを知るためには、日常生活と職業生活から離れた時間が必要になる。

それから、「真・善・美」の中で美の復権を訴えている。科学で得られる「真」が絶大な力を持っている現代では、「美」が衰えているのではないかという。「美」の教育が求められると言っている。同じことは「善」についても当て嵌まるだろう。こちらは哲学の役割になるのだろうか。この問題は最近のエッセイでも取り上げたばかりのテーマになる。

最後に、「見ること」の重要性を説いている。そう言えば、最初の拙ブログ「フランスに揺られながら」のサブタイトルがデカルトに肖ったこのフォルミュールであった。

"J'observe donc je suis." (われ観察す、ゆえにわれ在り)

あの数年間で観察を重ねていたことが、それ以降の基礎になっていたように見える。じっくり観ることが哲学の基礎にもなっていたように感じるのだ。それほど観ることは重要な運動なのである。



dimanche 25 décembre 2016

今道友信(1922-2012)著 『エコエティカ: 生圏倫理学入門』 を読み始める。著者のお話は以前にビデオで観たことがあるが、ゆったりしたソフトな語りが印象的であった。今道氏については、スートゥナンス後にアン・ファゴー・ラルジョー教授(コレージュ・ド・フランス)と話した中にも出てきていたので、興味を持っていた。本書は単に知識を与えるというのではなく、ゆっくりと思索された跡がよく表れている。さらに、講演録を基にしているようなので、言葉も日常のものに近く、話の流れについていきやすい。今日読んだところでの印象を以下にメモしておきたい。

エコエティカとは何なのか? その背景には人間を取り巻く環境の変化の認識がある。これまでは自然だけがわれわれの環境だったが、今や技術や芸術なども環境の中に入ってきた。高度に技術化された環境を「技術連関」という言葉で形容している。また、芸術作品の保存や継承なども新しい倫理の対象として取り上げるべきだと考えている。これまでの「対人倫理」だけではなく、「対物倫理」にも広げなければならないという考えである。

しかし、エコエティカの訴えが大きく認められることはなかったと著者は感じている。現代は倫理が忘れられやすい時代であると見ている。技術・効率性優先になっているため、それが満たされることでよしとする精神状態になっている。いろいろな行動指針や倫理規定ができ、それをパスすればよしとしている。そこで問題になっていることの哲学的・形而上学的意味を考えようとはしないのである。それをやらなければならないと訴えている。

そのために重要になるのが「世界の沈黙」であると言っている。つまり、「世界の沈黙」がなければ自らを省みることができないということである。これが現代では難しくなっているということになる。これまでのわたしの経験から、沈黙の重要性には同意せざるを得ない。このことを体で理解できたのが、こちらの時間の最大の贈り物であったとさえ言える。わたしの言葉で言えば、内省のためには「意識の第三層」に入る必要がある。そのための必須条件が実は沈黙と孤独である、となるであろう。

今至る所に見られる生命第一主義についても、考えることをしなくなった症状の表れではないかと見ている。種々の価値についての考察がなくなっているため、身近なことにしか目が行かなくなった結果だと見ている。つまり、考えて生命第一主義に辿り着いたのではないということである。哲学・形而上学の欠如である。

倫理の影が薄くなっているもう一つの理由を哲学者の側にも見ている。現代を取り巻く問題について、哲学者が分析・議論し、発言することが少なかったのではないか。況や新しい倫理を提唱することはなかったのではないか。このような認識もエコエティカを唱える背景にあったようである。ヨーロッパでも教えていた経験があり、外からの視点を持つ人ゆえの発言になるのだろうか。

わたしがこれからに向けて大切だと思ったことは、次の訴えの中にある。
「現代社会の中で・・新しい道徳原理を求めたりする理論的勇気を・・持ちつづけなくてはならない」
この中の「理論的勇気」という言葉である。道徳原理はそれぞれが考えていることに置き換えることができるだろう。これが科学技術の中で流されている精神に活を入れる言葉になり得るだろうか。そして、現代の問題について、率直で、闊達な語りが展開される日は来るのだろうか



mercredi 21 décembre 2016

生命倫理をどう考えて行くのか。一つのやり方として、この言葉を分解して考えてはどうかというアイディアが浮かんだ。すなわち、生命、倫理、そして生命倫理について考えるという順序で進めるということである。まず生命とは、倫理とはという問いを発し、それぞれについて哲学的考察を加える。その上で、生命倫理をどう捉えるべきかを考え、そこで問題になる具体的な状況について考え直すという方向性である。これからの1年を目途に、一つの塊を作り出したい。



mercredi 30 novembre 2016

生命倫理に関わる問題について、折に触れてメモしていきたい。
今日は本棚を眺めている時に目に付いたこの本について考えてみたい。

「いのちの思想」を掘り起こす――生命倫理の再生に向けて (安藤泰至編集)

第二章まで読んだところだ。著者たちは現代における生命倫理学が置かれている状況を望ましいものとは思っていないようだ。その理由の大きなものは、この学問が現実の問題解決によって社会に貢献するものに「貶められている」(わたしの言葉)と感じているからである。特に、アングロサクソンの「バイオエシックス」が入ってきた結果、個人の自律や自己決定だけが強調されるようになり、その条件を満たすための事務処理的な役割を担わされ、本来考えるべき「いのち」とは何なのかというような根源的な問いが脇に置かれるようになったからだと分析している。この状況を相対化するために、日本の4人の思想家を選び、その中にこれからに向けてのヒントを炙り出そうとしたのが本書である。4人の思想家についての分析はよくされており、そこから問題点が提起されている。しかし、それらの問題はこのような分析がされる以前にも存在していることが明らかなように見える。その問題から直ちに考え始めても良いのではないかというのが読後の感想であった。

生命倫理学と医療を取り巻く状況は、哲学・歴史と科学の関係を思い起こさせるものである。哲学を科学にとっての補完的な存在と見るのか、あるいはわたしが「科学の形而上学化」で唱えているように、両者が一体化したものを新しい科学と見るのかという選択の問題になるだろう。そのためには、その具体化、実践が求められる。それはまず思考の上での実践から始まり、人に働きかける実践へと進むべきものだろう。ただ、非常に難しい道である。